スクラップブックから 私は競馬はやりませんが、ハイセイコーのことはよく覚えています。競馬では最も重要視されるのが血統で、それで子供の能力や将来性、賞金などが大部分見えてしまう、現代を先取りしたかのような血統による秩序がある競馬ウマでの世界で、その当時、過去の概念を超え、実力だけで成りあがってきたハイセイコーという英雄にみんな自分をなぞらえて、希望を持ったものでした。今と違ってまだ、将来「もしかしたら俺だって」という可能性を信じられた一時でした。その後、負けがかさんで「やはり、夢だった」と、精神的抜け殻のようになったものです。その時代の空気を的確に表現した、寺山修司はやはり、すごい人でした。 

雑草の怪物・ハイセイコー死す 負けることの美学(2000.5.5 毎日新聞) ハイセイコーは、″革命前夜″に登場した。その日のことを、僕は鮮明に覚えている。地方の大井競馬場で6戦6勝、中央に入ってからも4戦4勝。怪物・ハイセイコーが負け知らずでダービ一を迎えたのは1973(昭和48)年5月27日だった。東京競馬場に16万人。ハイセイコーの単勝は売り上げの66.55%だった。数字から見ても、これは革命だった。 学園紛争で世の中は騒然。雪の越後から出稼ぎにきた、学歴もそれほどでもない田中角栄が天下をとった。時代は″革命のにおい″を感じていた。生物学者でもある昭和天皇が「どんな雑草にも名前があるんですよ」とおっしゃったことを僕は覚えている。 地方の雑草・ハイセイコーが中央の血統馬に挑戦する--このことだけで″革命前夜″たった。保守派は「あれはダート馬だ」「単なる力馬だ」とさげすんだが、馬券を初めて買った庶民は、日本一を決めるダービーでの雑草の勝利を信じていた。 詩人・寺山修司は、こんなことを書いている。 ふりむくと 一人の少年工が立っている 彼はハイセイコーが勝つたび うれしくて カレーライスを3杯も食べた 寺山が書いた「少年工」は庶民の代名詞である。その日、ハイセイコーは内ラチ沿いに懸命に走り、力尽き3着に敗れた。″革命″の挫折に人々は虚脱感を味わった。 ハイセイコーの人気は負けるたびに沸騰した。負けることが″革命前夜″の美学のように。当時、日本は今と変わらない大不況たった。オイルショック、ドルショック。人々は国民的なスターになったハイセイコーの快勝、惜敗を眺め、繁栄が現実なのか、不況が虚構なのか、見極めがつかないうちにバブル景気に突入した。種牝馬になった彼はそこそこ活躍した。息子のカツラノハイセイコのダービー圧勝は記憶に残ってはいるが、種牝馬としては良血馬に後れをとった。 それでも彼の枚萄には「ハイセイコー様」というあて名のファンレターが1日に何十通も届いた。寺山が「ふりむくと」というキーワードで始まる哀詩を書いたころと現在の日本は大分変わった。「革命」なんていう言葉は死語になった。心と心を通じ合うことが苦手になった日本人は、電脳に追いかけられてロマンまで忘れてしまっている。たび重なる少年犯罪の前で何をしていいのか分からない。人生までマニュアル本で片付けてしまうようなパサパサした毎日。こんなとき、ハイセイコーは静かに息をひきとった。
明日が光が見えない (2000.050.5スポーツニッポン) 白いメッシュのマスクと500キロを超す黒い雄大な馬体。ある時は雑草のように、伊達(だて)男のように、革命児のように走り続けたハイセイコーが誰にも看(み)取られることなく死んでしまうなんて (中略) ハイセイコーは「思想」を持った競走馬だった。反血統だった。反中央だった。「単なるダート馬、力馬でしかない」という評判に盾突いた革命派だった。一流大学を卒業して一流企業に就職したエリートともてはやされた人ではなく、どこにでもいる人々に愛された存在だった。地方育ちの野武士が血統馬をなき倒す。中流階級はハイセイコーに″光″を感じたのだ。 【牧太郎」
|