These foolish things

音楽を中心に新しいもの、古いものをなどMy Favaritesを。時には映画やWho's Whoなども

テディ・ウィルソンと北村英治

北村英治とテディ・ウィルソン

NHK-FM放送で「セッション(年号)」が78年に始まったころ、ご多聞にもれず、毎週せっせとエアチェックをしておりました。当時、スウィングジャズはコンボもビックバンドスタイルも聞いており、エアッチェックの他に、レコードを聞いたり、ニュー・グレンミラー楽団などのコンサートに通っったりしておりました。コンサートではトランペットやトロンボーンをそろって回したり、ミュートで押さえたりしており、照明に金管が反射してきれいでカッコよかったで。(スウィングガールズもまねしていました。)

コンボジャズは当初、北村英治さん中心に聴いておりました。レコードはビッグ・バンドとの共演したものを含め、数多く持っていますが、ピアノのテディ・ウィルソンさんと共演したシリーズは好きですね。2人は深い友情で結ばれているようで、格段に息のあった演奏を聞かせてくれていました。テディ・ウィルソンさんは先のベニーグッドマン来日公演の放送「過去記事 http://77117c.blog118.fc2.com/blog-entry-54.html」でも古い仲間として共演していましたが、ベニーグッドマンとの音楽での結びつきと同じ感じを下記引用のように、北村英治さんのクラリネットに見出したのでしょうか。


1982年にセッション82に登場したときは、最初はテディ・ウィルソンさんがソロで「A列車で行こう」を演奏し、その後北村英治さんとデュオ、さらに一人ずつメンバーが増えていき、最後はシックステットという洒落たスタイルの構成での演奏でした。(下の画像クリックでセッション82のソロ演奏を短時間聴けます)

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Swing Special 2(ライナーノーツより抜粋)

北村から聞いた話だがテディ・ウィルソンは仕事中は一切飲まないと言う。デリケイトな運指にアルコールが少しでもマイナスに作用する事に気を使っているのだ。そのかわり、仕事が終るとグラスにスコッチのストレートをなみなみとついで一気呵成に飲みほすそうだ。それからゆっくりと食事。その時は最上のワインを飲む。食後
はブランデーとなって、ベッド・インの直前はリキュールでしめくくる。優雅な酒の飲み方の典型的な見本である。このテディ・ウィルソンの北村への愛情は計り知れないものがある。スイング・ピアノの第一人者として典雅さと優美さで最高の名声を欲しいままにした稀代の名ピアニストは、日本へ来て北村と一緒にスイングする事を人生の喜びと言っている。彼が北村に対してあたえた讃辞の一つに゛英治はグッドマンと一緒にスイングするよりずっと楽しい″と言うのがある。1930年代を通じて、ジャズの分野はもち論、世界中のあらゆるカクティル・ピアニストにまで影響を及ぼした、この偉大な先覚者が東洋の一人のクラリネット吹きにぞっこん参っているサマは何ともほほえましいのだ。

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Groovi' with Teddy Wilson
(私のHNの由来となったアルバムです。)

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LIve sessin Teddy & Eiji
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もっとあると思いますが、探しだせません。アマゾンを見ると二人で多くのレコードを出していますね。見かけたものも多いです。そういえば、また、セッション・・・はやっているのですね。伊藤君子などという、懐かしい歌手の名前を見つけました。 


おまけです。


スクラップブックから 「イエスの方舟」

スクラップブックから (イエスの方舟)

ちりととてちん完全版DVD1が到着してから、ずっと、またちりとてちんの世界に浸っています。DVDを見始める前は第1集でお気に入りのシーンをまとめようかとも思っていましたが、実際に見始めると全てのシーンが意味深く、「ぎょうさん笑え」の教えに反して、最初から最後まで泣き通してしまい、特定のシーンを選択して取り上げることは困難だと判りました。初回ちかくのころなのでキャストが回を追って次々登場していますが、皆生身の人物が出てきたのかと見まがうほど、生きています。あらすじが予め判っていても、新しい人が登場するたび、この人物が主人公かと思ってしまうほどです。そのなかでも和久井映見さんの「おかあちゃん」はすごい。すぐ後ろ向きになる喜代美を徹底的に信じて、裏方に回りながらいつも成長を見守っています。

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和田家の家族、徒然亭の弟子たち(家族同然)の濃密なお互いの関係を見ていて、下記の千石イエスさんのことを思いだしました。東京大学法学部出身のエリート幹部を父に持った娘が、「全ての希望を受け入れてくれる両親を持ち何不自由なく育ったが、私は幸せではなかった」ように、色々な境遇で自分の居場所をなくした人たちが、千石イエスの元に居所を求めたのです。ちりとてちんのような、濃いが、お互いに相手のことを考えられる(擬似を含めた)家族関係、人間関係を持てなくなり、放り出された人々の側に立った1マスコミ(サンデー毎日)が他のマスコミの集中砲火を浴びても、この稀有な原始的な宗教集団を守りました。アグネスバッシングを思いだしました。

 


 

現代の精神混迷を投影(2001.12.14 毎日新聞)

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「イエスの方舟(はこぶね)」を奇怪な邪教集団としたのは警察と一部メディアが描いた幻影だった。21年前、「サンデー毎日」編集長として、私はその事実を明かし、中心人物、干石剛賢氏と出会った。家出女性を合む26人の男女は、なぜ家族より社会より大切なものとして、彼の周りに集い、非社会的なコミューンを結成していったのか。宗教法人ではない。聖書を中心とした地味な活動にすぎない。しかし、メンバー全員が生活を共にしながら生きる形は、価値観、道徳観を共にした疑似家族としての原始共同体であり、これが秘密をとくカギと見えた。
現在に至るまで、26人のメンバーは一人も減っていない。数年前、新しく3人の女性を加えている。今も全員が共同生活だ。メンバーはあのころも今も千石氏を「おっちゃん」と呼んでいる。家庭崩壊、親子の不信、企業社会からのドロップアウト。干石氏の周りに集まる人々には、現実社会に安堵(あんど)の場を失ったという共通項があった。あなたは、千石氏のどこに、心の救いを得たのか?」。メンバー全員に私はず、カリスマ的なリーダーが存在し、構成員はピラミッド型を形成する。しかし、「イエスの方舟」の場合、メンバーの□を僣りれば「私たちが『おっちゃん』を中心に同心円をつくっているというのだ。関西弁、やや乱暴な□ぶり。俗っぽさ。その庶民性、日常性、凡俗さこそが、干石氏の存在惑を強固なものにしている。

2年間メンバーとともに、世間の糾弾を受けながら身を隠し、私たちがイエスの方舟」の存在を世闇にさらした時、多くの作家、評論家が、現代において稀有(けう)に思える干石氏の宗教的求心力に関心を持った。
例えば野坂昭則氏は「戦後闇市時代のお助けじいさん」と呼んだ。千石氏は軍隊経験のあと戦後関もなく関西地方で歯ブラシ、磁気バンドの街頭販売をして生き抜いている。物はないが晴れ上がった青空があるじゃないか。ある種の焼け跡時代の楽天性を千石氏は持ち続けていた。故伊丹十三氏は「現代にはいなくなった日本のおかあさんと、干石氏を評した。今の日本の母親たちは本当の母性を喪失している。昔、日本の母親は、子供が迷い、自信を失った時、大きな包容力でじっと抱きしめた。今の母親は、ただ□うるさく、がなり立てるだけだ。
伊丹氏は「イエスの方舟」の家出女性たちの悩みに接する干石氏の姿から、現代人が見失ったものを鋭敏に感じ取り、一時、映画化を考えていた。
私は毎年のように博多を訪ね、千石氏やメンバーだちと会っている。千石氏が大きな怒りをぶちまけたのはオウム真理教事件だった。「人を殺す者が、宗教者であるはずはない」。彼は2度、テレビ番組に生出演し、激しい怒りをぶっつけ、オウム真理数の報復を恐れた警察が身辺警護をしたこともあった。2年前、訪ねた時に、人生相談があれば夜でもジャンパー姿でバイクに乗り、出かけるという話を聞いた。もともと、心筋こうそくと
いう持病を抱えながら「世間さまへのお返しですよ」と笑っていた姿を思い出している。同心円の中心人物を失って、この輪の中の人たちがどう生きていくのか。現代人が抱える混迷した精神風景を凝縮した形で投影していたイエスの方舟」のあすは見えない。(帝京平成大教授)


千石剛賢さん死去 イエスの方舟を主宰 78歳
(訃報記事)

聖書研究を核とした信仰グループ「イエスの方舟(はこぶね)」主宰で、女性会員と集団失跡などしか干石剛健(せんごく・だけよし)さんの死亡届が12日、居住地の福岡県古賀市役所に出されていた。78歳だった。死因などは不明。兵庫県生まれ。1952年から大阪の聖書研究会へ通い始め、60年に東京で極東キリスト集会を開き、信者と共同生活を始めた。75年に「イエスの方舟」と改称。若い女性会員の家出が続き、78年に「娘を返せ」と迫る家族から逃れるように東京を離れた。2年2ヵ月に鉛Jった逃亡生活を続けてマスコミで話題になり、干石イエスと称されるようになり、信者からは「おっちゃん」と呼ばれた。千石さんは名誉棄損容疑で書類送検されたが、不起訴処分になった。80年12月、福岡市に布教の拠点を移し、博多区中洲で集会所を兼ねたクラブ「シオンの娘」を営業して共同生活を続けていた。

イエスの方舟(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%88%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

「イエスの方舟」漂流後の二十年
http://home.att.ne.jp/sigma/satocantik/colum/200101.html

 


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スクラップブックから(役所は・・・)

スクラップブックから(役所は・・・)

2年前に下の小さなコラムを読んで、この判決を下した地裁判事とこれを「役所は人が生きるためにある。」と受け取って評価したコラム著者の心を思い感涙にむせびました。この判決は高裁でくつがえされ、テントはすぐに強制撤去されました。民法772条問題(*)など、社会の安寧秩序や醇風美俗を最重要視し、生身の人間の立場に想いを至らせられない人々の多いことは、容易に信じることができません。

近事片々(2006.01.28 毎日新聞)
ホームレスではない。ホームなのだ。大阪地裁が「テントの所在地は生活の本拠としての実体を備えており、住民基本台帳法の住所と認められる」との判断。判例としての確定は今後を待つとしても、生きる人間として共感がある。行政は困惑するだろう。しかし、住所がないために行政サービスから除外されている人々が、確かに存在する。日本人として基本的人権が保障されている、にもかかわらずである。住所、氏名の確認は行政サービス提供の前提だ。しかし、それが明らかになれば生活が破たんする人々がいる。人は役所の手続きのために生きるのではない。役所は人が生きるためにある。
(*)離婚後300日以内に誕生した子は前夫の子と推定する規定

オスロプロセスも然り。ニュースで見た会議場は狭くて、すし詰めの教室のようでした。ようはその組織、それを構成する人の立ち位置がどこに基盤を置いているかということなのでしょう。さしずめ、CCW(特定通常兵器使用禁止制限条約締結国会議)は「会議は踊る」に過ぎず。

憂楽帳(2008.5.30 毎日新聞)
クラスター爆弾禁止条約作りを進める軍縮交渉「オスロ・プロセス」のダブリン会議は、ダブリン市内の競技場で聞かれている。サッカー国家代表の試合が開かれる、東京でいえば国立競技場のような場所だ。もともと国際会議を聞くための施設ではない。地元の人は「100カ国以上も集まる国際会議は前例がなくて、専用施設などないんだよ」と少し恥ずかしそうだった。確かに、本会議場になっているメーンスタンド裏の細長いホールは、公民館の集会場を一回り広くしたくらいの広さしかない。ぎっしりと、すき間なくテーブルが並べられた会場で、約500人の代表団は、隣の国と肩をぶっけるように座っている。あまり快適な環境とは言えなそうだ。でも、各国はここで、クラスター爆弾の禁止条約作りという難しい交渉をまとめあげた。ジュネーブにある国連の立派な会議場で、何年かけてもできなかった条約だ。会場が交渉の質を左右するわけではないことを、改めて教えられた気がする。

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