つげ 義春 |
つげ 義春 つげ 義春さんは、それまでにも、雑誌「ガロ」に時々掲載されていた紅い花、海辺の叙景など、一味かわった叙情あふれる作品などを書いていましたので、気になっていましたが、1968年に発売された作品集にあった書き下ろしの「ねじ式jには、得体のしれない異様な迫力を感じました。 ガロ 「つげ義春作品集(1968.5)」
著者は東北地方を中心に、鄙びた宿を訪ねて、それを題材にして多くの作品を残しています。つげさんが旅してたころの温泉宿は高度成長がまだ、届かないため、昔ながらの藁や萱ぶきの建物で、道路は車の必要がないため狭く、舗装していないため、穴ぼこだらけで、家々は土ぼこりで汚れていました。私の生家も当時似たようなものでした。今では法律上でも、もう建てられない、葺きなおしもできない過去のものになってしまいました。宮本 常一の本のように、古い記憶と、記録の上だけに残るのでしょう。 私としては色々な作品のなかでも、ゲンセンカン主人が理由はよく自分でもわかりませんがお気にいりです。 以下は権藤 晋さん「ねじ式」夜話のページ
つげさんに現代風のHPがあるので驚きました。(WEB構成はたぶん本人ではないでしょうけど) 公式サイト ウィキペディア |
エルヴィスがすべて |
エルヴィスがすべて
アメリカの祈り「An American Trilogy」
Youtube 「How Great Thou Art 」 LPと同じステージかも [Read More...] |
豊島 ミホ 「底辺女子高生」 |
豊島 ミホ 「底辺女子高生」 映画「檸檬のころ」の原作者 豊島ミホさんが書いた本です。映画の「檸檬のころ」は原作の複数のお互いに関係したストーリー集から、2人の卒業真近な2人の高校3年生に焦点をあてて再構築したものでした。過去の記事でも書いたように、毎日、変わり映えのしない永遠に続くように思える日常のなかで、ある一時期、心が高揚したり落ち込んだりする様子を秀逸に描いていました。 これに対して「底辺女子高生」は著者が高校生だったころの経験を、ほとんどそのままで描いている(と思える)ものでした。「檸檬のころ」は創作で、本書とは異なることをおいても、「檸檬のころ」は上澄み、「底辺女子高生」は沈殿といったような感じを受けました。 下宿生活、屋上(に相当する美術室)、保健室登校、実験室での2人だけの掃除、文学誌への投稿など、小説にも登場したような場面も多く、この経験があのシーンに生きたのだと納得するところもありましたが、沈殿だけに、全体として今時と思えないほど、それこそ「ヘタレ」な高校生活が描かれています。
いなかの平凡な高校生の生活を底辺と称してここまで、自分を偽らずに書き込める筆者は、どこにでもいる凡人ではありません。数10年前の私の高校生時代でもこれほど「ヘタレ」ではありませんでしたが、覚えていても思いだしたくなかったり、書き留めるなどとは思いもよりません。2週間も家出をする行動力があり、自分の上澄みをすくいだせる力を持つ人は、大げさに言えば清濁併せ持つ器量と能力があるのでしょう。
幻冬舎WEBマガジン「底辺女子高生」 そのまま読めるようです。 |
ムーミンパパ海へ行く (2) |
ムーミンパパ海へいく(2) 先の富原真弓さんのムーミンに関する著作に関して、原作をを久しぶりに読み返しました。 ムーミンパパは、それがヨーロッパの家長としての役割なのか、一家のあるべき道を指し示す必要があると常に感じていますが、平凡な日常はムーミンママに仕切られて、自分の存在価値がわからなくなって、灯台のある島に一家で移住して、そこの新しい生活で、開拓者としてママに先立って、自分の主導権を回復しようとします。それもあらかじめ計画を立ててそのとおり実行しようと試み、また常にノートに記入して全てを理解しようと努めます。でも海や沼などの自然相手では当然、計画どおりにはことが進まず、また、理解できないことも多く残ります。家族も思ったとおりには行動しません。
ムーミンママはムーミン村では庭に畑を作って野菜を育て、地に足のついた生活をしていましたが、ムーミンパパに従って島に移住してなじもうと努力しますが、ホームシックになり、灯台の壁に花の絵を描いて、そのなかの庭に入り込んで寝てしまいます。
平凡だった家族が、まるで環境の違う場所への引越しと環境変化、それぞれの思い入れの違いなどから次第にばらばらになりながら、最後にまた理解し合うという、大人の寓話で、やはりムーミンパパが、がんじがらめの自分の思い込みから解放され、蘇生する内容が中心のテーマだと感じました。 ただ一人、養女のミイだけは、常に現実を直視して、バランスを崩しませんでした。
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Author:Groove
音楽(クラシックと演歌以外)と、映画、PCの日々。古い話を含め、お気に入りを書いていきます。