These foolish things

音楽を中心に新しいもの、古いものをなどMy Favaritesを。時には映画やWho's Whoなども

スクラップブックから(役所は・・・)

スクラップブックから(役所は・・・)

2年前に下の小さなコラムを読んで、この判決を下した地裁判事とこれを「役所は人が生きるためにある。」と受け取って評価したコラム著者の心を思い感涙にむせびました。この判決は高裁でくつがえされ、テントはすぐに強制撤去されました。民法772条問題(*)など、社会の安寧秩序や醇風美俗を最重要視し、生身の人間の立場に想いを至らせられない人々の多いことは、容易に信じることができません。

近事片々(2006.01.28 毎日新聞)
ホームレスではない。ホームなのだ。大阪地裁が「テントの所在地は生活の本拠としての実体を備えており、住民基本台帳法の住所と認められる」との判断。判例としての確定は今後を待つとしても、生きる人間として共感がある。行政は困惑するだろう。しかし、住所がないために行政サービスから除外されている人々が、確かに存在する。日本人として基本的人権が保障されている、にもかかわらずである。住所、氏名の確認は行政サービス提供の前提だ。しかし、それが明らかになれば生活が破たんする人々がいる。人は役所の手続きのために生きるのではない。役所は人が生きるためにある。
(*)離婚後300日以内に誕生した子は前夫の子と推定する規定

オスロプロセスも然り。ニュースで見た会議場は狭くて、すし詰めの教室のようでした。ようはその組織、それを構成する人の立ち位置がどこに基盤を置いているかということなのでしょう。さしずめ、CCW(特定通常兵器使用禁止制限条約締結国会議)は「会議は踊る」に過ぎず。

憂楽帳(2008.5.30 毎日新聞)
クラスター爆弾禁止条約作りを進める軍縮交渉「オスロ・プロセス」のダブリン会議は、ダブリン市内の競技場で聞かれている。サッカー国家代表の試合が開かれる、東京でいえば国立競技場のような場所だ。もともと国際会議を聞くための施設ではない。地元の人は「100カ国以上も集まる国際会議は前例がなくて、専用施設などないんだよ」と少し恥ずかしそうだった。確かに、本会議場になっているメーンスタンド裏の細長いホールは、公民館の集会場を一回り広くしたくらいの広さしかない。ぎっしりと、すき間なくテーブルが並べられた会場で、約500人の代表団は、隣の国と肩をぶっけるように座っている。あまり快適な環境とは言えなそうだ。でも、各国はここで、クラスター爆弾の禁止条約作りという難しい交渉をまとめあげた。ジュネーブにある国連の立派な会議場で、何年かけてもできなかった条約だ。会場が交渉の質を左右するわけではないことを、改めて教えられた気がする。

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牧太郎 雑草の怪物・ハイセイコー

スクラップブックから

私は競馬はやりませんが、ハイセイコーのことはよく覚えています。競馬では最も重要視されるのが血統で、それで子供の能力や将来性、賞金などが大部分見えてしまう、現代を先取りしたかのような血統による秩序がある競馬ウマでの世界で、その当時、過去の概念を超え、実力だけで成りあがってきたハイセイコーという英雄にみんな自分をなぞらえて、希望を持ったものでした。今と違ってまだ、将来「もしかしたら俺だって」という可能性を信じられた一時でした。その後、負けがかさんで「やはり、夢だった」と、精神的抜け殻のようになったものです。その時代の空気を的確に表現した、寺山修司はやはり、すごい人でした。

ハイセイコー04
ハイセイコー2

雑草の怪物・ハイセイコー死す
負けることの美学(2000.5.5 毎日新聞)


ハイセイコーは、″革命前夜″に登場した。その日のことを、僕は鮮明に覚えている。地方の大井競馬場で6戦6勝、中央に入ってからも4戦4勝。怪物・ハイセイコーが負け知らずでダービ一を迎えたのは1973(昭和48)年5月27日だった。東京競馬場に16万人。ハイセイコーの単勝は売り上げの66.55%だった。数字から見ても、これは革命だった。
学園紛争で世の中は騒然。雪の越後から出稼ぎにきた、学歴もそれほどでもない田中角栄が天下をとった。時代は″革命のにおい″を感じていた。生物学者でもある昭和天皇が「どんな雑草にも名前があるんですよ」とおっしゃったことを僕は覚えている。
地方の雑草・ハイセイコーが中央の血統馬に挑戦する--このことだけで″革命前夜″たった。保守派は「あれはダート馬だ」「単なる力馬だ」とさげすんだが、馬券を初めて買った庶民は、日本一を決めるダービーでの雑草の勝利を信じていた。
詩人・寺山修司は、こんなことを書いている。
 ふりむくと 一人の少年工が立っている 彼はハイセイコーが勝つたび うれしくて カレーライスを3杯も食べた 
寺山が書いた「少年工」は庶民の代名詞である。その日、ハイセイコーは内ラチ沿いに懸命に走り、力尽き3着に敗れた。″革命″の挫折に人々は虚脱感を味わった。
ハイセイコーの人気は負けるたびに沸騰した。負けることが″革命前夜″の美学のように。当時、日本は今と変わらない大不況たった。オイルショック、ドルショック。人々は国民的なスターになったハイセイコーの快勝、惜敗を眺め、繁栄が現実なのか、不況が虚構なのか、見極めがつかないうちにバブル景気に突入した。種牝馬になった彼はそこそこ活躍した。息子のカツラノハイセイコのダービー圧勝は記憶に残ってはいるが、種牝馬としては良血馬に後れをとった。
それでも彼の枚萄には「ハイセイコー様」というあて名のファンレターが1日に何十通も届いた。寺山が「ふりむくと」というキーワードで始まる哀詩を書いたころと現在の日本は大分変わった。「革命」なんていう言葉は死語になった。心と心を通じ合うことが苦手になった日本人は、電脳に追いかけられてロマンまで忘れてしまっている。たび重なる少年犯罪の前で何をしていいのか分からない。人生までマニュアル本で片付けてしまうようなパサパサした毎日。こんなとき、ハイセイコーは静かに息をひきとった。

明日が光が見えない
(2000.050.5スポーツニッポン)
白いメッシュのマスクと500キロを超す黒い雄大な馬体。ある時は雑草のように、伊達(だて)男のように、革命児のように走り続けたハイセイコーが誰にも看(み)取られることなく死んでしまうなんて
(中略)
ハイセイコーは「思想」を持った競走馬だった。反血統だった。反中央だった。「単なるダート馬、力馬でしかない」という評判に盾突いた革命派だった。一流大学を卒業して一流企業に就職したエリートともてはやされた人ではなく、どこにでもいる人々に愛された存在だった。地方育ちの野武士が血統馬をなき倒す。中流階級はハイセイコーに″光″を感じたのだ。
【牧太郎」


スクラップブックより

スクラップブックから

映画「愛を乞うひと」を記してから、再度映画全体を見直していますが、随所に挿入される回想シーンで子供だった主人公が親となって、自分の子と向き合うという輪廻が不思議な感じでした。子供も高校生くらいになって親を良くも悪くも理解する、あるいは理解してもらえるようになると、背負っていた一部を下ろせたようで楽しいでしょうね。そこに至るまでには、永い年月が必要です。「産まれたるちごの大人になる」までに、暗い小道で道を外れてしまう人こそ、寄り添う人が必要なのでしょう。

余禄(2004.9.17 毎日新聞)

「ゆくすえはるかなるもの」の一つに「産まれたるちごの大人になるほど」を挙けたのは「枕草子」の清少納言だ。人が大人になるのは誰にとっても長い道のりである。その先にはどこへ続くとも知れぬ分かれ道や深い森、危ない底なし沼も待っている
一人の女児から大人になる道を永遠に奪い去り、もう一人の女児心に長く続くであろう暗く狭い道を歩ませることになった長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件である。その少年審判で、加害女児を自立支援施設に送致するなどの保護処分が決まった
11歳の女児に同級生の命を奪わせたのはいったいどんな魔物なのか−家庭裁判所の決定を通して、そんな加害女児の心を探った魔が明らかにされるのを見守っていた人もいただろう。だが決定を読む限り、起こった惨事に見合うような異形のものの姿は見当たらない。感情表現に不器用で、怒りをコントロールできず、ホラー小説が好きな子は珍しくない。もしかしたら鑑定が不十分だったのだろうか。いや、もともと、誰にでも分かるような原因を女児の心の中に求めるのが無理だったのではないか
「子どものすべては理解できないと分かったうえで、理解する努力を続けてください。それぞれのやり方で」。
被害者の御手洗怜美さんの父啓二さんはそう手記に書いた。恒美さんを奪い去った出来事の真実を知ることのできないもどかしさと無念の中で記された真実の言葉である。
大人への長い道のりで子供とって最も大切なものは、親や大人に見えない小道を通って育っていくのに違いない。だがその小道は恐るべき暗闇へと続いていることもある。親のでさること、できないこと、やらねばならないこと。それそれをもう一度見つめ直したい。

 


愛を乞うひと


愛を乞うひと

 

下田治美さんの原作小説とそれを元にした、平山監督の映画です。

小説映画

子供時代に母親から虐待、今でいうDVを受けた主人公が、娘を伴って父親の遺骨探しに台湾に出かけ、そののち、幼少期精神的・肉体的に虐待を受け続けた母親を探して訪ねるまでを描いています。
幼少期では全面的に依存せざるを得ない母親から、正視に耐えられないような拷問を振舞われても、なお自分のルーツである、親を探しにでかける主人公を、原田美枝子さんが、母親役との1人2役を見事に演じています。特に主人公の楚々としたなかにも凛とした態度の演技は見事でした。最後に母親と再会した時、お互いに名乗らず、客としての会話をして帰途につくシーンはようやく、過去の母親との関係に決別でき、自分の位置が把握できたこと示すシーンで歴史的な名場面だと思います。
家庭内暴力は、意識しないで連鎖することが多いと言われていますが、それだけ親になった時の自分の親の影響が大きいということなのでしょう。映画では結論は敢えて示していません。それは観た人がを考えろということなのでしょうか。

関連スレ 「読売新聞 発言小町 親に言われて、心に刺さって抜けない言葉」

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0717/138566.htm?from=yoltop

子供との毎日を描いた「呪い」シリーズ↓の筆者が、と仰天させらた渾身の小説と映画でした。

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スクラップブック(2)

スクラップブックから2編を


ヨットレースと野球の話題ですが、それぞれ生身の人間が自分の存在をかけて取り組んでいます。データから勝つためのゲームをする世知辛い生きかたでない、全身全霊で生きた人間たちです。最近ではあまり見かけない斜めに構えない不器用な生き方です。覚えている人は少なくとも「どう勝ったかではなく、どう生きたか」です。


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黒岩徹の世界を覗く
勝負に負け、レースに勝った男(1997.04.09毎日新聞)




昨年11月から今年3月にかけて行われた単独無寄港世界一周ヨットレースには、人間性に深く触れるドラマがあった。フランス西海岸から出発したヨットが南太平洋を進んでいた昨年12月末、英国から参加した元海兵隊員ピート・ゴス(35)は、参加者のフランス入ラファエル・ディネリの救援を求める声を無線で聞いた。消え入るような声から命の危険を察知し、直ちにレースを投げ出して、高波の中を200キロも戻ったのだ。10年来の夢だったレース参加のために家を売り、8万ポンド(約16O万円)の借金までつくったにもかかわらず。


はたしてディネリは、ひざまで水につかり、沈没寸前だった。低体温で脱水状態だった彼に、ゴスは4時間置きにスープを飲ませ、動けない彼をバケツの上に引き上げて用便までさせた。12日間彼を助けながらレースを続け、豪州タスマニアのホパート港近くで彼を降ろし、そのまま西へとョットを駆った。今年3月初め、126日ぶりに仏西岸の出港地に帰港した。優勝候補だったが助けに戻ったために遅れ、5位となった。どこの世界にも官僚的人間がいるものである。「ゴスは、航海中他人を乗せたから失格」「彼だけを例外にするのは不公平」としてその単独無寄港世界一周記録を認めるべきではないと主張する本部の小役人がいたのである。


だがレースを捨てて仲間の命を救ったピート・ゴスにフランス人が黙っていなかった。ゴスを3月末レース出港地レサーブルドローヌに招いたのだ。世界一周したヨットが港に着いたとき、助けられたディネリほか、10万人の観衆が出迎えた。レース優勝者が帰港したときの2万人をはるかにしのぐ人々だった。「偉大なるピートが帰ってきた」との顔れ幕が下がり、群衆は「ピート、ピート」と絶叫した。ピート・ゴスが、レーースに負けて、レースに勝った瞬間だった。
ゴスを迎えたディネリは、「ピートは肉体的精神的に強い男だ。英国のライオンである。一方で優しく他人を思いやる心にあふれている。苔いが老人の賢さをもっている」といって涙をこぼした。
たとえ英仏関係が将来険悪化しようと、ピート・ゴスのなしえた行為は、「英国人にもいいところがある」とフランス人に永く思わせるだろう。個人の行動が他国民の心にじかに触れる、そういう時代だ。国と国との関係も結局は人と人の関係なのである。



日本シリーズ物語 西村欣也
(97.10.21朝日新聞)


一人のわき役の使い方が、チャンピオンフラッグの行方を、決めることがある。1985年。阪神−西武のシリーズで、主役を演じたのは阪神のランディー・バースだった。ペナントレースで三割五分、五十四本巣打、百三十四打点の成績を残し三冠王、MVPを獲得した怪人はニンリースでも三本塁打を放ち、MVPに輝いた。が、勝敗を染め分けたポイントを振り返ると、そこに、一七五センチ、」八八キロの華奢(きゃしゃ)なサウスポーがいる。福間納だ。阪神に初の日本一をもたらすことになる吉田義男は、球審に「ピッチャー、福問」と告けることで、自らの野球観、あるいは人生観を具現化しているようにもみえた。
「第五識を取った方の勝ちでしょう。第五識で決まる」広岡達朗がいつもの人を食ったような話し方でインタビューに応じたのは、十月三十日。第四戦が終わった直後だ。西武は二達敗のあと二連勝。第五識は必ず取ってみせるという、広岡の宣言たった。その第四戦の敗戦投手が福間だ。八回無死満塁で登板した福間は、このピンチを無失点で切り抜ける。しかし、九回、「左殺し」のニツクネームを持つ西岡良洋に決勝の2点本塁打を浴びたのだ。「二十時間以上、福間のビデオを見て研究しました」。西岡のセリフだ。


短期決戦の日本シリーズ、常識的に考えれば、それ以降福間の起用は難しくなるはずだ。が、吉田の考え方は違っていた。三十一日の第五戦。先発の池田親興が四回無死一、二塁のピンチを招くと「ピッチャー、福間」をコールする。西武が代打に西岡を送ってくるのを承知の上で、だ。一死満塁となり、広岡はやはり、西岡を代打に起用した。福間はスライダーで西岡を遊ゴロ併殺に仕留めた。フッと息を吐き出す。阪神がシリーズのイニンアチブを握った瞬間だ。


「逃げたら、あかんのですわ」吉田は言う。「あそこで、逃げたら、福間はずっと逃げ続けなあかん。人生でも、そうですわ」実は、ペナントレースでも、吉田は同じ手法を使っている。五月二十日。雨が降りやまない後楽園球場で、吉田は福間を起用した。前日、原にサヨナラ2ランを喫した左腕を、また原のところで使ったのだ。福間は原を右飛に仕留めて、生き返る。「あの日ですね」と岡田彰布が振り返った。「ナインがひとつになった。あの五月、言葉は悪いですが、このおっさんに命を預けようと思った」。十一月二目。所沢で、吉田は宙を舞った。指揮官は、福間を[触媒」として、使ったといえるかもしれない。彼を投入することで、まるで化学反応を促すように、選手の力を最大限に引き出した。敗れた広岡が辞任を表明したのは、シリーズ終了六日後、十一月八日のことだった。


 


佐瀬稔のスポーツ人生 (2)

ああ、愛しのダブルヘッダー



1992年のセ・リーグの優勝争いのときの佐瀬さんの記事です。
スポーツに秀でてプロの選手になり、勝負にかけた生活を送っているうち、いつのまにか金銭や報酬の比重が多くなってきた選手もいるうちで、連戦のはての最後の段階で、ふと純粋に野球で勝負を味わえる楽しさを再認識できた時間を取り戻し、スポーツを始めた原点に戻った喜びの感情を見事に描いています。
1963年西鉄ライオンズが中西太 稲尾和久など博多の豪傑たちをそろえて南海との16.5ゲーム差を逆転してパ・リーグ優勝したとき、すべてを忘れて試合にかじりついていたことを思い出しました。最後は近鉄との4連戦、4勝で優勝、3勝1敗でプレーオフ、2勝2敗で近鉄が優勝という状況で2日でダブルヘッダーを2回4試合戦い、劣勢をはねかえして4連勝して優勝しました。



「こんなときに仕事なんかやっていられるかという気分で、セ・リーグの優勝をかけた神宮球場のヤクルトー阪神2連戦、甲子園球場の阪神−ヤクルト2連戦を見に走った


W・P・キンセラの小説「シューレス・ジョー」の中で、シューレス・ジョーはこう語っている。「おれは食うために野球をやらなきゃならなかった。ぽんとはただで野球をやって、ほかの仕事で食いたかった。肝心なのは試合、球場、匂(におい)、音だった」
「そういうものについて話すだけで、おれは生まれてはじめてダブルヘッダーを見に行く子供みたいに体中がうずきだすんだ」
生まれてはじめてダブルヘッダーを見に行ったのは昭和23年、後楽園球場たった。あのころはまだ変則ダブルというのがあって、第1試合はA対B、第2試合はC対Dの組み合わせになり、2試合で少なくとも4人のピッチャーを見ることができる。水道橋の駅からもう走りっぱなしで、暗くてじめじめした通路を通り抜け、一歩スタンドに踏み出すと心が広々と開け放たれ、それだけで歓喜がきわまったものだ。


ありがたいことに、あのころと変わらぬ気持ちで神宮、甲子園に走った。さらにありかたいことに、両チームの選手たちは、シューレス・ジョー・ジャクソンと同じ心のうずきにかられて勝負を争った。
たとえば神宮での第2戦、9回裏一死。白球で出た広沢が次の池山のセンター左への安打で三塁まで走った。広沢をして走らしめたのは「ぽんとはただで野球をやりたかった」という、胸の奥深くにわき起こった衝勣だったにちがいないと思う。


sase03.jpgここで代わった阪神の投手・湯舟は四球を2度続け、わずか10球で交代したが、あれほどすごいフォアボールを見たことがない。一球一球が白い歯をむき出している感じで、それがボールになってしまう。ワンバウンドする。コーナーを外れる。激しい思いのこもった美しい四球という、まさに稀有(けう)のものを見たのだ。
二死満塁で飯田が三塁線に打った球をオマリーは倒れて捕り、座ったまま一塁に投げた。ジョーはキンセラに「おれは野球を愛していた」と語ったが、ゆるくて山なりで空(むな)しい送球に、同じ愛情がキラキラ輝いていた。ああ、生まれてはじめて見るダブルヘッダー。



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佐瀬 稔 スポーツ人生(1)

佐瀬 稔さん


既に鬼籍に入った人たちのなかでも、特に記憶に残る人々がいます。一般的にはあまり知られていなくても、ふとしたきっかけで、お気に入りとなった人達です。、その生き方や残した業績を知っている人がいなくなると、ほんとうに世の中から消え去ってしまします。そんな記憶に残る人々の1人が佐瀬稔さんです。スポーツライターで大会社の記者からフリーランスになり、スポーツ、特に野球やボクシング、登山などの選手に対し、冷静かつ暖かな目で取材しています。そんな記事のうちのひとつです。


20071027170759.jpg  佐瀬稔のスポーツ人生(1995.11.13)


 勇気を捨てきれない悲劇



若かったころ、それはまばゆいばかりの勇気だったが、年齢を重ねれば向こう見ずな愚かさとなる。お願いだ、間違えないでほしい。USAトゥデー紙のボクシング記者、ブライアン・バーウェルはそう書いた。先日八ボウに逆転負けを喫したホリフィールドに送る言葉である。 このボクサーを初めて見だのはもう11年も前、ロサンゼルス・オリンピックだった。跳んだりはねだり以外にはほとんど能のない、モハマド・アリのあしき模倣者たちばかりが目立ったあの大会でごれまた無能のレフェリーの誤審により、L・ヘビーー級準決勝で失格負けという非道の処分を課せられたが、彼こそは正統・古典のボクシングを一身に表現したと強い感銘を受け、プロに入ったのちも注目し続けた。1992年11月、93年11月と2度にわたって行われたボウとの世界タイトルマッチも当然のことながらこの目で見届けた。 第1戦は負け、第2戦は雪辱。クルーザー、ヘビーの両階級を制し、すでに数十億/の財産を手にしながら、心の張りひとつで誠実かつ勇敢に戦い抜いた第2戦がとくに胸に残った。 その果ての第3戦小山のようなボウを相手に、ホリフィールドは2回過ぎから動きを止めて接近戦を挑み、見る問に戦力を消耗していった。最終ラウンドまで、到底己の体力がもたないと知ったうえでの、一撃にすべてを託す選択だった。
 8回、左フックで倒し、7回も攻勢を続行したが、とどめを刺すまでの力はとうに失っていて、8回開始早々、ボウの右フックのカウンターでボロきれのようになってキャンバスに落ちた。パ−ウェルが書いたとおり、33歳、全盛を過ぎた者が若かったころの勇気をついに放棄し得なかったゆえの、悲劇的な(あるいは当然の)敗北である。

屋外スタジアムはひどく寒かった。屋根の下のインタビュールームに移ったあとも震えのやまないまま、敗者が「さらに戦い続ける」と語るのを聞いた。 もうやめろ、だれもあなたをリングの中で見たくはない、という点ではアメリカ人記者と完全に意見が一致する。しかし、ヤワな日本人は「向こう見ずの愚かさ」とまでは書くことができなかった。それ以外に語る言葉はないと知りつつも、正午過ぎの男に面と向かって、あとはもうテラスで猫を抱いて暮らせとだれがいえるか。





(つづく)


 


 


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東 君平 おはようどうわ 「なつがくる」


お気に入りを切り抜いたスクラップブックより


東 君平さんの「なつがくる」 1982.6.26



おかあさんが、おしいれの、せいりをしています。 (中略) こどもたちのゆかたも、だしておきます。せたけがのびたので、ちょっと、しんぱいですが、もう一ねんくらい、きられるかもしれません。よみせの、にぎやかな、あしおとや、かきごおりをかくおとが、きこえます。たけぶえのさきで、ふくらんでいたゴムふうせんが、プーイーと、しぼんでいくねとも、きこえます。ぱんおどりの、たいこのおとも、みみをすませば、きこえます。


「こどもは、八じになったら、おかえりください。そのあとぱ、おとなの、ばんおどりです」ぼんおどりのよるは、おじいさんや、おばあさんが、かつやくします。おそろいのゆかたに、あかいいたすきをして、ぞうりをはいています。「いつのまに、そろえたのかなあ」いつのまにか、ぼんおどりのために、おそろいをつくっているのです。「らいねんも、おどれるかどうか、わからないからねえ」なつから、なつまでは、ながくて、いろいろなことかあります。ばんおどりの、わのなかに、きょねんと、おなじかおがそろえば、なによりです。おかあさんは、なつまつりのはっぴも、心すれずに、はこから、だしておきました。



一年は短いようで長い。風景は同じでもいつのまにか人は少しずつ入れ替わる。毎年、夏まつりと桜の季節には「また一年間生きていた」と思います。上の童話はこども向けですが、大人には心に沁みます。竹内まりやのアルバム「デニム」の中の人生の扉という曲のように。


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音楽(クラシックと演歌以外)と、映画、PCの日々。古い話を含め、お気に入りを書いていきます。

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