These foolish things

音楽を中心に新しいもの、古いものをなどMy Favaritesを。時には映画やWho's Whoなども

スクラップフックから

スクラップフックから


都議会セクハラ野次問題でchange.org署名/投稿してから、change.orgからいろいろなキャンペーンの案内が届くようなりました。書きたいことがあっても考えがまとまらずなかなか記事にまとめることができないこのブログよりも、効果が期待できると考えchange,orgのなかで賛同できるキャンペーンに対して参加しています。内容は最初に参加したセクハラの問題のほか、パワハラなどのハラスメント、ジェンダー問題などです。


今朝(11/3)の朝日新聞の記事


性別などで役割を分担、固定化されて生きることはだれにとっても窮屈だということが、高校生によって見直されている記事です。次の世代はここまで到達しています。

制服交換、「当たり前」見直す
「常識を乗り越え、最も身近な常識『男らしさ』『女らしさ』から離れてみる」。今月11日、そんなメッセージを掲げた催しが、山梨県立富士北稜高校(富士吉田市)で開かれる。「セクスチェンジ・デー」と呼ぶ。「sex」(性)と「exchange」(交換)の造語だ。生徒が男女で制服を交換して、1日を過ごす。ルールも決めた。サイズを合わせて無作為に交換する。トイレはいつもの方へ。全校生徒約800人のうち約300人が、制服を取りかえる予定だ。

昨年10月、社会問題の解決策を競う「全国高校デザイン選手権」で、当時の3年、川口智矢さん(19)ら生徒3人のチームが企画を提案し、優勝した。きっかけは、テレビ番組で見た「おねえキャラ」のタレントたち。そこから性的少数者の人たちにまで関心を広げた。「『男らしく』『女らしく』という僕たちにとって当たり前の意識が、彼らを生きづらくさせているのでは」

昨年9月、女子の制服を着て1日過ごした。チェックのキュロット、襟元にリボン。頭は丸刈り。足をそろえていすに座った。この体験から、自分の置かれた状況を考えるようになった。男で野球部員で、学級委員長。率先して場を盛り上げ、皆を引っ張るのが好きだった。「周りも自分にその役割を期待し、自分も応えようとしていた」ほかの「当たり前」も違って見えてきた。例えば、食器洗いをしなくても自分や兄は怒られないのに、妹はやらされる。自ら食器を洗うようになった。
--後略--
(錦光山雅子、高橋末菜、石原孝)


もうひとつ、たまたま休暇で家にいたとき、リアルタイムで見ていました。

10月15日 NHK あさイチ テーマ「40代からのセクハラ」
イノッチの発言
「有働アナが面白くしてくれるからって、縁結びとかのネタの時に有働さんに振るのも俺はどうかと思うよ」
「有働さん、それをラッキーって言ってくれるからってそれですべてが良いわけじゃないんだよ、この人が強いから言っていいとかじゃなくて、やっぱり相手がどう思うかってことを常に考えないと」
「いや、だって嫌でしょ。みんな楽しい方がいいでしょ。ってことなんですけど」

ハラスメントの本質を理解した発言。すばらしかった。

スクラップブックから(7)清水やまなみ橋

スクラップブックより(7)
清水やまなみ橋


毎日のように通勤の途中で集団登校の子供たちとすれ違います。ふざけまわる下級生を上級生がたしなめながらみんなで楽しそうに歩いて来ます。普通の日常の光景だけど、こうやって子供達が当たり前のように日々を重ねることができている光景を見るだけで目が潤んできます。ふと目にとまった下の記事もそんな一瞬を丁寧に記事にしていました。

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地域の人達に見守られて卒業する6人だけの最後の卒業生たちは、みんな、なんていい顔をしているのでしょう。実際にはそれぞれ色々あるかもしれないけれど、根拠もないけれど彼らはこれからも大丈夫という気がします。まるで映画「天然コケッコー」の世界みたいだと思いました。

3.11が来るたび、何も発言できなくなってしまいます。多くの犠牲者・行方不明者、傷ついた人達、避難を余儀なくされた人達、何もかも失った人達に対して、何もできないでいます。たけしが『人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。』と言っていましたが、そのとおり。何年たっても何も考えられなくなってまとまりません。




増田れい子さん 風の行方

増田れい子さん 「風の行方」

003_20121223125633.jpg 2012年も年末となったある日、新聞の片隅に増田れい子さんの訃報記事が掲載されていました。増田さんを知ったのは1981年ごろ毎日新聞に連載されていた、私の紳士録と題する記事でした。この連載では本人の言によると、「いばらない男」たちの生き方とその志を紹介していました。当時、登場人物たちの偏見を持たない生き方に影響を受け、著者の増田れい子さんの本を読むようになりました。

001_20121223125632.jpg(連載をまとめた本)

ジェンダーフリーを否定する人達は、現代でもなお残っていますが、当時ではめずらしかった機嫌良く人生を愛することができる男たちは30年近くたった今日では、かなり常識に近くなってきたように思います。増田さんは、このブログでこれまでにリストアップしてきた私淑した人達、の一人でもありました。このような人を80年代初めに編集委員という重要なポストにおいた毎日新聞の懐の深さと卓見にも改めて感謝しています。


気になってスクラップ保存した記事の一例です。

花見忠氏(当時上智大学法学部長)
「男は仕事、女は家庭という世にありふれたひとつの偏見を、ぼくは持だなかった。なぜ持たなかったか、というと、それは、ぼくが学界の道を選んだからです。学者は、偏見を持ってはならない。偏見はぼくの敵なんです。偏見とは、心のごとを一定の枠に入れて見ること。男について、女について、結婚について、こうあるべきというきめつけ方を、ぼくはとらなかった」

友人樋口恵子さんの寸評
私の男性観をくつがえした恩人です。男も生活を愛せる人種なのだと、花見さんを知って確認出来たわけです。什事も生活も愛廿るのがほんとうの男の人なんですね。ですから花見さんを契機に、私は男の人に希望を持ちはじめたの。(中略)いつもキゲンのいい人で、そこが値打ち。というのは、男社会だというのに、男の入ってキゲンの悪い人が多いのね。女のキゲンの悪いのは当然なのに、世の中、逆なんですよ。花見さんは笑顔で心のごとを処理出来るゆとりの名人なのね。
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上 筀一郎氏(児童史研究家)

「上さんってダメね」といわれつけている。何かダメなのか。何でダメなのか。
一、妻の女性史研究家山崎朋子さんより有名でない
二、収入が朋子さんより下だ
三、トクにもならない仕事を平気でしている
四、台所仕事をする
五、有名大学卒でない。
結構じゃないですか。私にいわせれば、この五つの理由によって、上さんは紳士の中の紳士たり得ている∧である。(中略)「人を支配したり圧迫したい衝勣って、人間にはあるわけですよ。でも自分がそうされたらイヤでしょう。家事だってそう。イヤですよ。だから人に押しつけないだけのことです」

男らしい男って、どういう人のことをいいますか、とそんな話になったら、上さんはいった。「いばらない男、ですね」この「私の紳士録」、別名いばらない男列伝のつ心りでいる。



スクラップブックより

スクラップブックより(5)


新聞の切り抜きから琴線に触れた記事を時折アップしていましたが、ここしばらくはそんな気持ちになる記事にお目にかかれませんでした。
しかし2011.11.30毎日新聞夕刊の木村万里さんのコラム「月間笑いに生アクセス」の落語家立川談志の記事は久しぶりに、書いた人の体温や息遣いが聞こえるような、湯気が立っている文章でした。私自身は立川談志の落語は聞いたことがありませんでしたが、木村万里さんにとって、一人の人間の一生を決めてしまうほどのインパクトのある芸と、その瞬間に居合わせそれによって影響を受けることができる感受性が揃った奇跡だったのでしょう。当人の下地の有無も大きいでしょうが、こんな出会いを持てる人は幸せですね。20歳ころの私にとっての「立川談志」は誰だったのだろうかと思います。でも、この年齢になってもまだ、そういうチャンスが目の前に現われるかも知れず、アンテナは張っていようと思いました。

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新聞記事(一部)。
全文は月間 笑いに生アクセスで読むことができます。

大阪の梅田花月で立川談志の「芝浜」を聴かなければ、いまここにこうして文章を書いてはいなかった。40年以上前の独演会。盆地のような客席、その底、前席から2列目の席。初めて見る洛語家がすぐ前にいた。「夢になるといけねえ」。サゲの後も椅子から動けず、ようようたってなだらか坂を駆け足で上の出□へ向かう。門限を気にしながら、このまま帰るにはあまりに惜しくて振り返った。足が止まった。お客と話し込む高座の談志に、知らないうちに拍手をしていた。やはり立ち去りがたく残っていた数十人のお客がつられて2度目の拍手を一斉に。
生きる意味をくそ真面目に悩む多感な10代、噺と同じ飲んだくれの父親がいたおかげて、「芝浜」のようになればどんなにいいだろうと涙し、その後、談志のずばり本音をさらす大人の姿に、文学書や哲学書からは得られなかった生活の知恵的な何か、おおげさに言えば、ちょっとは楽に生きていける魔法の術を入手したような気がした。(以下略)

HPに続きがありました。

そのあと、ファンレターを書いたら「拝復、貴方を覚えていますヨ」に始まって「噺の中で時折貴方に語りかけたはずです」っていうお手紙が。座っていた位置も把握。「格子の服を着てたでしょ?」「そばにお兄さんがいたでしょ?」
(中略)
文章を書くのが好きだと言ったら「書きゃいいじゃねえか」そうか、そんなことで生きてけるのか疑問だった。単にサラリーマンの家の子として育った身には、自由業で食っていけるなんて思いもしない。初めて文章が新聞にのったとき、週刊誌にのったとき、見せたら、私より喜んでくだすって。なんだ、こんなに喜んでもらえるのだったらもっと早く書けばよかったと驚いたくらい。それから幾星霜、今はこんなことになっていて。
流れ流れてこんなことになってます。

木村万里さんのHP(まりしろ)



死支度致せ致せと桜哉

死支度致せ致せと桜哉


表題は一茶の句ですが、今年も桜が咲いて、また一斉に散っていきました。毎年この季節になると、「今年も桜にめぐり会うことができた。」と、桜並木を散歩しながら、満開の花を写真に収めることをずっと続けてきました。

今年の桜  昨年の桜
昨年の記事に書いた、竹内まりあさんのSONGSもプレミアムになって先日NHKで再放送していました。そのなかの人生の扉という歌の歌詞の「満開の桜や色づく山の紅葉をこの先いったい何度見ることになるだろう」という心境を、ずっと以前から持っていたものですが、まりあさんよりはるかに年上である上に、昨年来、体に変調を感じてからはさらに、毎年春の感慨が深くなってきました。

 満開の桜、なかでも開き切って爛熟し重そうに頭を垂れている花を見ると、これから次弟に散っていく運命が予見され、幾多の先人たちも、花のなかに死が見えたのでしょう。歌心のないGrooveとしては、先達の歌に「そうそう」と、頷くばかりです。

願わくは花のもとにて春死なん この如月の望月のころ
西行法師

苦の娑婆や桜が咲ば咲いたとて
一茶

桜の樹の下には屍体が埋まっている
梶井基次郎

散る桜 残る桜も 散る桜
良寛

SONGS PREMIUM

年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず
劉廷芝


ただ、過ぎに過ぎるもの

ただ、過ぎに過ぎるもの

年末になり、新聞やTVなどで今年鬼籍に入った人々のリストや追悼文を掲載しています。没した年齢が私以下の方も増えており、それらの記事に思わず引き付けられて、自分の来し方、行く末に思いを致してしまいます。何年か何十年か過ぎると、極一部の名声を得た人を除き人々の記憶から消え去って、存在しなかったことになって本当に消えてしまいます。市井に生き、無名のまま亡くなった人々はなおさらです。下は、せめて私だけでも、覚えておきたい、と思った人々のリストです。


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  • 樺 美智子
  • 山崎 博昭
  • 奥 浩平
  • 斉藤 竜鳳
  • 高橋 和巳
  • 竹中 労
  • 鴨志田 譲

無頼の人が多いです。しがらみにがんじがらめになって生きていると、不可能と分かっていても無頼の日々に憧れます。


枕草子の中に「ただ、過ぎに過ぎるもの。帆かけ舟 人の齢 春、夏、秋、冬。」という、一文がありますが、年齢を重ねるにつれ、年をとるスピートが速くなるを感じるのは千年前から変わらないようです。私が学生時代の永遠に時間の止まったような夏休み(たとえば、アニメ「タッチ」の白い夏の日々)に永い間惹かれているのも、この流れを一瞬でも忘れさせてくれる気がするためかも知れません。
(枕草子は「ゆくすえはるかなるもの 産まれたるちごの大人になるほど」の文章も気に入っており、清少納言と比較するのもおこがましいですが、感じかたが近いのかも知れません。)

気に入った文章

東 君平 おはよう童話

「らいねんも、おどれるかどうか、わからないからねえ」なつから、なつまでは、ながくて、いろいろなことかあります。ばんおどりの、わのなかに、きょねんと、おなじかおがそろえば、なによりです。」


なぜ、夏休みは終わってしまうのか
大林 宣彦(2001.08.28 朝日新聞)

何かが終わっていくのは、さびしいしかなしい。その哀切を感じる心は、人生歳を経るほどに増してくる、と考えられるが、じつはぼくはそうでもないのではないか、と思う。子どもの頃の方が、もっとさびしかったし、もっとかなしかった。たとえば、日曜日の真昼、ぼくは縁側に寝そべっている。友だちは、いま頃どこで、何をして遊んでいるのだろう?出かけて行って仲間に加われば、いつも通りの日曜日にすぐさまなるのに、きょうはなぜだか、ぼくはひとりで、此所にいる。何度か繰り返し読んだ本の頁を、いまからもう一度めくっていけば、間違いなく日は暮れる。ぼくは何かに取り残されていく。吸い込まれるような青い空を見つめながら、
子どもの頃のぼくは、えもいわれぬものくるおしさに、身もだえしていた。
(中略)
同じ日曜日が二度とこないように`同じ夏休みはもう二度とやってこない。そのことをいちばんよく知ってぃるのは、子どもたちだ。子どもはどんどん成長していく。夏休みが終わって学校へ行くと、先生も、教室の机も、運動場も、まるで見知らぬもののように小さくなっている。そこは未知の世界だ。未知の世界に向かって一歩を踏み出すのは恐ろしい。だから彼らは、いつも世界に向かっで緊張している。これが大人になれば、ひと夏の前も後もそんなに変わりはない,さびしさやかなしさを忘れ、生きる意味さえも失っていく。


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スクラップブックより

スクラップブックより(4)

下の引用は最近の新聞記事ですが、これを読んだ時、自分の子供時代の記憶と重なリました私の子供時代は、高度成長の前で戦争の爪跡がまだ色濃く残っおり、遊び場といえば、田畑、原っぱのほか、戦争で焼けた建物の残骸や防空壕のなかなどで、色々な年の子供達が一緒に遊んでいました。舗装していない道は幹線道路でも自動車は通らず、ときおり荷を引いた馬が馬糞を落としながら通るくらいのものでした。
18歳で出奔してから、故郷には帰らず、今日も、大都会の中を「天然コケッコー」のそよちゃんのように人あたりもせず、毎日満員電車で通勤しています。田舎では、父母や実家は既になく、周りの景色も全く変わってしまいました。友達も少しずつ黄泉の国に旅立ち始めています。生活のために、世間知の鎧をかぶったまま、結局、故郷に帰ることはなく、この都会のどこかで朽ち果てていくのでしょう。

「檸檬のころ」、「リンダリンダリンダ」、あるいは「天然コケッコー」などに惹かれるのも、天衣無縫に生きられたころに無意識に憧れがあるせいかもしれません。

追憶
(2008.11.26 毎日新聞 女の気持ち=投書欄)

母の七回忌の法要があった。随分長いこと実家には帰らなかった。見慣れない新しい家が一つ二つ建っていたけれど、美しい山並み、田んぼ、風たちは、私を優しく迎えてくれた。母の墓前に手を合わせていると、姉が「H君、ここに眠っているの」と、隣のお墓を見ながら言った。

彼の訃報は1月の寒いころ聞いた。「あー、死んでしまったのか」。彼との思い出が私の頭の中を駆け巡った。彼とは幼なじみだった。毎日一緒に遊んだ。おてんばな私とわんぱくな彼。私たちはとても気が合った。毎日朝から晩まで野山を駆け回った。クタクタに疲れ果て、どろんこになって遊びほうけた。
あれから長いこと、私は平凡に年を重ねてしまった。知らず知らず普通に生きるための常識を身につけ、丸くてちっちゃな大人になってしまった。ハイヒールも上手にはきこなし、すっかり都会の景色にも溶け込む人になってしまった。ほおづえをついて喫茶店でコーヒーなんか飲んだりしていると、生まれた時からこんなおしゃれな暮らしをしていたんだなんて思い込んだりしてしまう。
「私は実は天衣無縫のどうしようもないおてんば娘で、しかも田舎もんだったんだね」。彼の墓前で昔のはつらつとした自分の姿を思い出してしまった。
「ありがとう、さようなら」私は子どもの声でささやきたかった。

福島市   永塚美智子主婦・55歳

最近の電車のなかでは、石黒ケイ「ライブセレクション」を聞いています。アルバム収録よりも迫ってくる感じでずっと良い。なかでも、本牧挽歌や浅川マキのカバー「ジンハウスブルース」はよかった。「大砂塵」や「ガソリンアレイ」なども聴いてみたいものです。

live selection 

石黒ケイ公式サイト
http://www.dc-forte.co.jp/kei/top.htm


スクラップブックから(役所は・・・)

スクラップブックから(役所は・・・)

2年前に下の小さなコラムを読んで、この判決を下した地裁判事とこれを「役所は人が生きるためにある。」と受け取って評価したコラム著者の心を思い感涙にむせびました。この判決は高裁でくつがえされ、テントはすぐに強制撤去されました。民法772条問題(*)など、社会の安寧秩序や醇風美俗を最重要視し、生身の人間の立場に想いを至らせられない人々の多いことは、容易に信じることができません。

近事片々(2006.01.28 毎日新聞)
ホームレスではない。ホームなのだ。大阪地裁が「テントの所在地は生活の本拠としての実体を備えており、住民基本台帳法の住所と認められる」との判断。判例としての確定は今後を待つとしても、生きる人間として共感がある。行政は困惑するだろう。しかし、住所がないために行政サービスから除外されている人々が、確かに存在する。日本人として基本的人権が保障されている、にもかかわらずである。住所、氏名の確認は行政サービス提供の前提だ。しかし、それが明らかになれば生活が破たんする人々がいる。人は役所の手続きのために生きるのではない。役所は人が生きるためにある。
(*)離婚後300日以内に誕生した子は前夫の子と推定する規定

オスロプロセスも然り。ニュースで見た会議場は狭くて、すし詰めの教室のようでした。ようはその組織、それを構成する人の立ち位置がどこに基盤を置いているかということなのでしょう。さしずめ、CCW(特定通常兵器使用禁止制限条約締結国会議)は「会議は踊る」に過ぎず。

憂楽帳(2008.5.30 毎日新聞)
クラスター爆弾禁止条約作りを進める軍縮交渉「オスロ・プロセス」のダブリン会議は、ダブリン市内の競技場で聞かれている。サッカー国家代表の試合が開かれる、東京でいえば国立競技場のような場所だ。もともと国際会議を聞くための施設ではない。地元の人は「100カ国以上も集まる国際会議は前例がなくて、専用施設などないんだよ」と少し恥ずかしそうだった。確かに、本会議場になっているメーンスタンド裏の細長いホールは、公民館の集会場を一回り広くしたくらいの広さしかない。ぎっしりと、すき間なくテーブルが並べられた会場で、約500人の代表団は、隣の国と肩をぶっけるように座っている。あまり快適な環境とは言えなそうだ。でも、各国はここで、クラスター爆弾の禁止条約作りという難しい交渉をまとめあげた。ジュネーブにある国連の立派な会議場で、何年かけてもできなかった条約だ。会場が交渉の質を左右するわけではないことを、改めて教えられた気がする。

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牧太郎 雑草の怪物・ハイセイコー

スクラップブックから

私は競馬はやりませんが、ハイセイコーのことはよく覚えています。競馬では最も重要視されるのが血統で、それで子供の能力や将来性、賞金などが大部分見えてしまう、現代を先取りしたかのような血統による秩序がある競馬ウマでの世界で、その当時、過去の概念を超え、実力だけで成りあがってきたハイセイコーという英雄にみんな自分をなぞらえて、希望を持ったものでした。今と違ってまだ、将来「もしかしたら俺だって」という可能性を信じられた一時でした。その後、負けがかさんで「やはり、夢だった」と、精神的抜け殻のようになったものです。その時代の空気を的確に表現した、寺山修司はやはり、すごい人でした。

ハイセイコー04
ハイセイコー2

雑草の怪物・ハイセイコー死す
負けることの美学(2000.5.5 毎日新聞)


ハイセイコーは、″革命前夜″に登場した。その日のことを、僕は鮮明に覚えている。地方の大井競馬場で6戦6勝、中央に入ってからも4戦4勝。怪物・ハイセイコーが負け知らずでダービ一を迎えたのは1973(昭和48)年5月27日だった。東京競馬場に16万人。ハイセイコーの単勝は売り上げの66.55%だった。数字から見ても、これは革命だった。
学園紛争で世の中は騒然。雪の越後から出稼ぎにきた、学歴もそれほどでもない田中角栄が天下をとった。時代は″革命のにおい″を感じていた。生物学者でもある昭和天皇が「どんな雑草にも名前があるんですよ」とおっしゃったことを僕は覚えている。
地方の雑草・ハイセイコーが中央の血統馬に挑戦する--このことだけで″革命前夜″たった。保守派は「あれはダート馬だ」「単なる力馬だ」とさげすんだが、馬券を初めて買った庶民は、日本一を決めるダービーでの雑草の勝利を信じていた。
詩人・寺山修司は、こんなことを書いている。
 ふりむくと 一人の少年工が立っている 彼はハイセイコーが勝つたび うれしくて カレーライスを3杯も食べた 
寺山が書いた「少年工」は庶民の代名詞である。その日、ハイセイコーは内ラチ沿いに懸命に走り、力尽き3着に敗れた。″革命″の挫折に人々は虚脱感を味わった。
ハイセイコーの人気は負けるたびに沸騰した。負けることが″革命前夜″の美学のように。当時、日本は今と変わらない大不況たった。オイルショック、ドルショック。人々は国民的なスターになったハイセイコーの快勝、惜敗を眺め、繁栄が現実なのか、不況が虚構なのか、見極めがつかないうちにバブル景気に突入した。種牝馬になった彼はそこそこ活躍した。息子のカツラノハイセイコのダービー圧勝は記憶に残ってはいるが、種牝馬としては良血馬に後れをとった。
それでも彼の枚萄には「ハイセイコー様」というあて名のファンレターが1日に何十通も届いた。寺山が「ふりむくと」というキーワードで始まる哀詩を書いたころと現在の日本は大分変わった。「革命」なんていう言葉は死語になった。心と心を通じ合うことが苦手になった日本人は、電脳に追いかけられてロマンまで忘れてしまっている。たび重なる少年犯罪の前で何をしていいのか分からない。人生までマニュアル本で片付けてしまうようなパサパサした毎日。こんなとき、ハイセイコーは静かに息をひきとった。

明日が光が見えない
(2000.050.5スポーツニッポン)
白いメッシュのマスクと500キロを超す黒い雄大な馬体。ある時は雑草のように、伊達(だて)男のように、革命児のように走り続けたハイセイコーが誰にも看(み)取られることなく死んでしまうなんて
(中略)
ハイセイコーは「思想」を持った競走馬だった。反血統だった。反中央だった。「単なるダート馬、力馬でしかない」という評判に盾突いた革命派だった。一流大学を卒業して一流企業に就職したエリートともてはやされた人ではなく、どこにでもいる人々に愛された存在だった。地方育ちの野武士が血統馬をなき倒す。中流階級はハイセイコーに″光″を感じたのだ。
【牧太郎」


スクラップブックより

スクラップブックから

映画「愛を乞うひと」を記してから、再度映画全体を見直していますが、随所に挿入される回想シーンで子供だった主人公が親となって、自分の子と向き合うという輪廻が不思議な感じでした。子供も高校生くらいになって親を良くも悪くも理解する、あるいは理解してもらえるようになると、背負っていた一部を下ろせたようで楽しいでしょうね。そこに至るまでには、永い年月が必要です。「産まれたるちごの大人になる」までに、暗い小道で道を外れてしまう人こそ、寄り添う人が必要なのでしょう。

余禄(2004.9.17 毎日新聞)

「ゆくすえはるかなるもの」の一つに「産まれたるちごの大人になるほど」を挙けたのは「枕草子」の清少納言だ。人が大人になるのは誰にとっても長い道のりである。その先にはどこへ続くとも知れぬ分かれ道や深い森、危ない底なし沼も待っている
一人の女児から大人になる道を永遠に奪い去り、もう一人の女児心に長く続くであろう暗く狭い道を歩ませることになった長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件である。その少年審判で、加害女児を自立支援施設に送致するなどの保護処分が決まった
11歳の女児に同級生の命を奪わせたのはいったいどんな魔物なのか-家庭裁判所の決定を通して、そんな加害女児の心を探った魔が明らかにされるのを見守っていた人もいただろう。だが決定を読む限り、起こった惨事に見合うような異形のものの姿は見当たらない。感情表現に不器用で、怒りをコントロールできず、ホラー小説が好きな子は珍しくない。もしかしたら鑑定が不十分だったのだろうか。いや、もともと、誰にでも分かるような原因を女児の心の中に求めるのが無理だったのではないか
「子どものすべては理解できないと分かったうえで、理解する努力を続けてください。それぞれのやり方で」。
被害者の御手洗怜美さんの父啓二さんはそう手記に書いた。恒美さんを奪い去った出来事の真実を知ることのできないもどかしさと無念の中で記された真実の言葉である。
大人への長い道のりで子供とって最も大切なものは、親や大人に見えない小道を通って育っていくのに違いない。だがその小道は恐るべき暗闇へと続いていることもある。親のでさること、できないこと、やらねばならないこと。それそれをもう一度見つめ直したい。

 


愛を乞うひと


愛を乞うひと

 

下田治美さんの原作小説とそれを元にした、平山監督の映画です。

小説映画

子供時代に母親から虐待、今でいうDVを受けた主人公が、娘を伴って父親の遺骨探しに台湾に出かけ、そののち、幼少期精神的・肉体的に虐待を受け続けた母親を探して訪ねるまでを描いています。
幼少期では全面的に依存せざるを得ない母親から、正視に耐えられないような拷問を振舞われても、なお自分のルーツである、親を探しにでかける主人公を、原田美枝子さんが、母親役との1人2役を見事に演じています。特に主人公の楚々としたなかにも凛とした態度の演技は見事でした。最後に母親と再会した時、お互いに名乗らず、客としての会話をして帰途につくシーンはようやく、過去の母親との関係に決別でき、自分の位置が把握できたこと示すシーンで歴史的な名場面だと思います。
家庭内暴力は、意識しないで連鎖することが多いと言われていますが、それだけ親になった時の自分の親の影響が大きいということなのでしょう。映画では結論は敢えて示していません。それは観た人がを考えろということなのでしょうか。

関連スレ 「読売新聞 発言小町 親に言われて、心に刺さって抜けない言葉」

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0717/138566.htm?from=yoltop

子供との毎日を描いた「呪い」シリーズ↓の筆者が、と仰天させらた渾身の小説と映画でした。

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スクラップブック(2)

スクラップブックから2編を


ヨットレースと野球の話題ですが、それぞれ生身の人間が自分の存在をかけて取り組んでいます。データから勝つためのゲームをする世知辛い生きかたでない、全身全霊で生きた人間たちです。最近ではあまり見かけない斜めに構えない不器用な生き方です。覚えている人は少なくとも「どう勝ったかではなく、どう生きたか」です。


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黒岩徹の世界を覗く
勝負に負け、レースに勝った男(1997.04.09毎日新聞)




昨年11月から今年3月にかけて行われた単独無寄港世界一周ヨットレースには、人間性に深く触れるドラマがあった。フランス西海岸から出発したヨットが南太平洋を進んでいた昨年12月末、英国から参加した元海兵隊員ピート・ゴス(35)は、参加者のフランス入ラファエル・ディネリの救援を求める声を無線で聞いた。消え入るような声から命の危険を察知し、直ちにレースを投げ出して、高波の中を200キロも戻ったのだ。10年来の夢だったレース参加のために家を売り、8万ポンド(約16O万円)の借金までつくったにもかかわらず。


はたしてディネリは、ひざまで水につかり、沈没寸前だった。低体温で脱水状態だった彼に、ゴスは4時間置きにスープを飲ませ、動けない彼をバケツの上に引き上げて用便までさせた。12日間彼を助けながらレースを続け、豪州タスマニアのホパート港近くで彼を降ろし、そのまま西へとョットを駆った。今年3月初め、126日ぶりに仏西岸の出港地に帰港した。優勝候補だったが助けに戻ったために遅れ、5位となった。どこの世界にも官僚的人間がいるものである。「ゴスは、航海中他人を乗せたから失格」「彼だけを例外にするのは不公平」としてその単独無寄港世界一周記録を認めるべきではないと主張する本部の小役人がいたのである。


だがレースを捨てて仲間の命を救ったピート・ゴスにフランス人が黙っていなかった。ゴスを3月末レース出港地レサーブルドローヌに招いたのだ。世界一周したヨットが港に着いたとき、助けられたディネリほか、10万人の観衆が出迎えた。レース優勝者が帰港したときの2万人をはるかにしのぐ人々だった。「偉大なるピートが帰ってきた」との顔れ幕が下がり、群衆は「ピート、ピート」と絶叫した。ピート・ゴスが、レーースに負けて、レースに勝った瞬間だった。
ゴスを迎えたディネリは、「ピートは肉体的精神的に強い男だ。英国のライオンである。一方で優しく他人を思いやる心にあふれている。苔いが老人の賢さをもっている」といって涙をこぼした。
たとえ英仏関係が将来険悪化しようと、ピート・ゴスのなしえた行為は、「英国人にもいいところがある」とフランス人に永く思わせるだろう。個人の行動が他国民の心にじかに触れる、そういう時代だ。国と国との関係も結局は人と人の関係なのである。



日本シリーズ物語 西村欣也
(97.10.21朝日新聞)


一人のわき役の使い方が、チャンピオンフラッグの行方を、決めることがある。1985年。阪神-西武のシリーズで、主役を演じたのは阪神のランディー・バースだった。ペナントレースで三割五分、五十四本巣打、百三十四打点の成績を残し三冠王、MVPを獲得した怪人はニンリースでも三本塁打を放ち、MVPに輝いた。が、勝敗を染め分けたポイントを振り返ると、そこに、一七五センチ、」八八キロの華奢(きゃしゃ)なサウスポーがいる。福間納だ。阪神に初の日本一をもたらすことになる吉田義男は、球審に「ピッチャー、福問」と告けることで、自らの野球観、あるいは人生観を具現化しているようにもみえた。
「第五識を取った方の勝ちでしょう。第五識で決まる」広岡達朗がいつもの人を食ったような話し方でインタビューに応じたのは、十月三十日。第四戦が終わった直後だ。西武は二達敗のあと二連勝。第五識は必ず取ってみせるという、広岡の宣言たった。その第四戦の敗戦投手が福間だ。八回無死満塁で登板した福間は、このピンチを無失点で切り抜ける。しかし、九回、「左殺し」のニツクネームを持つ西岡良洋に決勝の2点本塁打を浴びたのだ。「二十時間以上、福間のビデオを見て研究しました」。西岡のセリフだ。


短期決戦の日本シリーズ、常識的に考えれば、それ以降福間の起用は難しくなるはずだ。が、吉田の考え方は違っていた。三十一日の第五戦。先発の池田親興が四回無死一、二塁のピンチを招くと「ピッチャー、福間」をコールする。西武が代打に西岡を送ってくるのを承知の上で、だ。一死満塁となり、広岡はやはり、西岡を代打に起用した。福間はスライダーで西岡を遊ゴロ併殺に仕留めた。フッと息を吐き出す。阪神がシリーズのイニンアチブを握った瞬間だ。


「逃げたら、あかんのですわ」吉田は言う。「あそこで、逃げたら、福間はずっと逃げ続けなあかん。人生でも、そうですわ」実は、ペナントレースでも、吉田は同じ手法を使っている。五月二十日。雨が降りやまない後楽園球場で、吉田は福間を起用した。前日、原にサヨナラ2ランを喫した左腕を、また原のところで使ったのだ。福間は原を右飛に仕留めて、生き返る。「あの日ですね」と岡田彰布が振り返った。「ナインがひとつになった。あの五月、言葉は悪いですが、このおっさんに命を預けようと思った」。十一月二目。所沢で、吉田は宙を舞った。指揮官は、福間を[触媒」として、使ったといえるかもしれない。彼を投入することで、まるで化学反応を促すように、選手の力を最大限に引き出した。敗れた広岡が辞任を表明したのは、シリーズ終了六日後、十一月八日のことだった。


 


佐瀬稔のスポーツ人生 (2)

ああ、愛しのダブルヘッダー



1992年のセ・リーグの優勝争いのときの佐瀬さんの記事です。
スポーツに秀でてプロの選手になり、勝負にかけた生活を送っているうち、いつのまにか金銭や報酬の比重が多くなってきた選手もいるうちで、連戦のはての最後の段階で、ふと純粋に野球で勝負を味わえる楽しさを再認識できた時間を取り戻し、スポーツを始めた原点に戻った喜びの感情を見事に描いています。
1963年西鉄ライオンズが中西太 稲尾和久など博多の豪傑たちをそろえて南海との16.5ゲーム差を逆転してパ・リーグ優勝したとき、すべてを忘れて試合にかじりついていたことを思い出しました。最後は近鉄との4連戦、4勝で優勝、3勝1敗でプレーオフ、2勝2敗で近鉄が優勝という状況で2日でダブルヘッダーを2回4試合戦い、劣勢をはねかえして4連勝して優勝しました。



「こんなときに仕事なんかやっていられるかという気分で、セ・リーグの優勝をかけた神宮球場のヤクルトー阪神2連戦、甲子園球場の阪神-ヤクルト2連戦を見に走った


W・P・キンセラの小説「シューレス・ジョー」の中で、シューレス・ジョーはこう語っている。「おれは食うために野球をやらなきゃならなかった。ぽんとはただで野球をやって、ほかの仕事で食いたかった。肝心なのは試合、球場、匂(におい)、音だった」
「そういうものについて話すだけで、おれは生まれてはじめてダブルヘッダーを見に行く子供みたいに体中がうずきだすんだ」
生まれてはじめてダブルヘッダーを見に行ったのは昭和23年、後楽園球場たった。あのころはまだ変則ダブルというのがあって、第1試合はA対B、第2試合はC対Dの組み合わせになり、2試合で少なくとも4人のピッチャーを見ることができる。水道橋の駅からもう走りっぱなしで、暗くてじめじめした通路を通り抜け、一歩スタンドに踏み出すと心が広々と開け放たれ、それだけで歓喜がきわまったものだ。


ありがたいことに、あのころと変わらぬ気持ちで神宮、甲子園に走った。さらにありかたいことに、両チームの選手たちは、シューレス・ジョー・ジャクソンと同じ心のうずきにかられて勝負を争った。
たとえば神宮での第2戦、9回裏一死。白球で出た広沢が次の池山のセンター左への安打で三塁まで走った。広沢をして走らしめたのは「ぽんとはただで野球をやりたかった」という、胸の奥深くにわき起こった衝勣だったにちがいないと思う。


sase03.jpgここで代わった阪神の投手・湯舟は四球を2度続け、わずか10球で交代したが、あれほどすごいフォアボールを見たことがない。一球一球が白い歯をむき出している感じで、それがボールになってしまう。ワンバウンドする。コーナーを外れる。激しい思いのこもった美しい四球という、まさに稀有(けう)のものを見たのだ。
二死満塁で飯田が三塁線に打った球をオマリーは倒れて捕り、座ったまま一塁に投げた。ジョーはキンセラに「おれは野球を愛していた」と語ったが、ゆるくて山なりで空(むな)しい送球に、同じ愛情がキラキラ輝いていた。ああ、生まれてはじめて見るダブルヘッダー。



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佐瀬 稔 スポーツ人生(1)

佐瀬 稔さん


既に鬼籍に入った人たちのなかでも、特に記憶に残る人々がいます。一般的にはあまり知られていなくても、ふとしたきっかけで、お気に入りとなった人達です。、その生き方や残した業績を知っている人がいなくなると、ほんとうに世の中から消え去ってしまします。そんな記憶に残る人々の1人が佐瀬稔さんです。スポーツライターで大会社の記者からフリーランスになり、スポーツ、特に野球やボクシング、登山などの選手に対し、冷静かつ暖かな目で取材しています。そんな記事のうちのひとつです。


20071027170759.jpg  佐瀬稔のスポーツ人生(1995.11.13)


 勇気を捨てきれない悲劇



若かったころ、それはまばゆいばかりの勇気だったが、年齢を重ねれば向こう見ずな愚かさとなる。お願いだ、間違えないでほしい。USAトゥデー紙のボクシング記者、ブライアン・バーウェルはそう書いた。先日八ボウに逆転負けを喫したホリフィールドに送る言葉である。 このボクサーを初めて見だのはもう11年も前、ロサンゼルス・オリンピックだった。跳んだりはねだり以外にはほとんど能のない、モハマド・アリのあしき模倣者たちばかりが目立ったあの大会でごれまた無能のレフェリーの誤審により、L・ヘビーー級準決勝で失格負けという非道の処分を課せられたが、彼こそは正統・古典のボクシングを一身に表現したと強い感銘を受け、プロに入ったのちも注目し続けた。1992年11月、93年11月と2度にわたって行われたボウとの世界タイトルマッチも当然のことながらこの目で見届けた。 第1戦は負け、第2戦は雪辱。クルーザー、ヘビーの両階級を制し、すでに数十億/の財産を手にしながら、心の張りひとつで誠実かつ勇敢に戦い抜いた第2戦がとくに胸に残った。 その果ての第3戦小山のようなボウを相手に、ホリフィールドは2回過ぎから動きを止めて接近戦を挑み、見る問に戦力を消耗していった。最終ラウンドまで、到底己の体力がもたないと知ったうえでの、一撃にすべてを託す選択だった。
 8回、左フックで倒し、7回も攻勢を続行したが、とどめを刺すまでの力はとうに失っていて、8回開始早々、ボウの右フックのカウンターでボロきれのようになってキャンバスに落ちた。パ-ウェルが書いたとおり、33歳、全盛を過ぎた者が若かったころの勇気をついに放棄し得なかったゆえの、悲劇的な(あるいは当然の)敗北である。

屋外スタジアムはひどく寒かった。屋根の下のインタビュールームに移ったあとも震えのやまないまま、敗者が「さらに戦い続ける」と語るのを聞いた。 もうやめろ、だれもあなたをリングの中で見たくはない、という点ではアメリカ人記者と完全に意見が一致する。しかし、ヤワな日本人は「向こう見ずの愚かさ」とまでは書くことができなかった。それ以外に語る言葉はないと知りつつも、正午過ぎの男に面と向かって、あとはもうテラスで猫を抱いて暮らせとだれがいえるか。





(つづく)


 


 


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東 君平 おはようどうわ 「なつがくる」


お気に入りを切り抜いたスクラップブックより


東 君平さんの「なつがくる」 1982.6.26



おかあさんが、おしいれの、せいりをしています。 (中略) こどもたちのゆかたも、だしておきます。せたけがのびたので、ちょっと、しんぱいですが、もう一ねんくらい、きられるかもしれません。よみせの、にぎやかな、あしおとや、かきごおりをかくおとが、きこえます。たけぶえのさきで、ふくらんでいたゴムふうせんが、プーイーと、しぼんでいくねとも、きこえます。ぱんおどりの、たいこのおとも、みみをすませば、きこえます。


「こどもは、八じになったら、おかえりください。そのあとぱ、おとなの、ばんおどりです」ぼんおどりのよるは、おじいさんや、おばあさんが、かつやくします。おそろいのゆかたに、あかいいたすきをして、ぞうりをはいています。「いつのまに、そろえたのかなあ」いつのまにか、ぼんおどりのために、おそろいをつくっているのです。「らいねんも、おどれるかどうか、わからないからねえ」なつから、なつまでは、ながくて、いろいろなことかあります。ばんおどりの、わのなかに、きょねんと、おなじかおがそろえば、なによりです。おかあさんは、なつまつりのはっぴも、心すれずに、はこから、だしておきました。



一年は短いようで長い。風景は同じでもいつのまにか人は少しずつ入れ替わる。毎年、夏まつりと桜の季節には「また一年間生きていた」と思います。上の童話はこども向けですが、大人には心に沁みます。竹内まりやのアルバム「デニム」の中の人生の扉という曲のように。


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音楽(クラシックと演歌以外)と、映画、PCの日々。古い話を含め、お気に入りを書いていきます。

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